台湾では、今年の4月から中部から南部の地域にわたって給水制限がかけられています。ホテルやスポーツクラブの営業用プールも利用が中止されています。1947年以来の記録的な水不足の問題に直面しているのです。
昨年から降水量が少なく、以前から水不足が心配されていましたが、それが現実のものになっています。台湾では昨年の4月から6月の雨季から雨量が少なく、その後の台風シーズンの7月から9月にかけても台風がほとんど来なかったのです。2021年に入ってからも例年に比べて雨が少なく、ますます深刻な状況になってきています。もちろん雨は嫌ですが、今回に限ってはまとまって雨が降って欲しいですね。
そんな水不足の現状もありますが、ちょうど100年前に台湾南部の水不足に対する灌漑用水確保に尽くした日本人エンジニアのお話をさせていただきたいと思います。
台湾の新幹線である「高鐵」に乗ったことがあれば、台湾中部から南部にかけて、見渡す限りの広大な水田や稲穂の光景を見たことがあるのではないでしょうか。台湾中部の雲林から、嘉義、南部の台南、高雄にわたっては、“嘉南平原”といい、台湾の米蔵として知られています。お米の収穫期にこの平原を見渡すと、真に金色の波のようです。しかしながら、大昔からこの光景という訳ではなかったのです。今からほんの90年前には全く異なる風景だったのです。
台湾の地形をご覧になるとお分かりでしょうが、台湾の中央には日本の富士山よりも高い険しい山々が聳え立っています。その高低差もあって、山にたくさん雨が降っても、あっという間に海まで流れてしまうのです。そのため稲作を行うことは難しかったのです。もともとは水不足となり水田には向かない地形なのです。
そのような時代であった1910年に、日本から一人の若い土木エンジニアが台湾にやってきました。その方は日本の東京帝大(現在の東京大学)を卒業したばかりの当時24歳の八田与一さんという方でした。(続)
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